1918年(大正7年)2月14日、青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)に生まれる。田名部尋常高等小学校から旧制野辺地中学へ進んだ。既にこの時代巡回映画で観たD.W・グリフィス監督のサイレン卜映画「イントレランス」に深く感銘している。1935年、明治大学文芸科へ進み、映画研究部に所属。この時先輩には飛鳥田一雄(元日本社会党委員長)がいた。翌年、在京各大学有志で組織されていた、日本映画研究会の一員となる。その中には映画監督西河克己がいた。1938年、松竹大船撮影所助監督採用試験を受験し合格。入社後、渋谷実、島津保次郎、清水宏、野村浩将、小津安二郎、大庭秀雄など、ほとんどの監督に助監督として付く。木下恵介「花咲く港」で初のチーフ助監督。1943年の監督試験で晴れて監督となる。監督第1回作品は、織田作之助原作・脚色による「還って来た男」。続いて恤兵映画「笑う宝船」を撮るが、公開は敗戦後となる。以後「シミキンのオオ!市民諸君」などのスラップスティック調の喜劇や風俗映画を多数製作。1954年「昨日と明日の間」を最後に松竹を去り、当時製作再開した日活へ移籍。日活入り第1作の「愛のお荷物」以下「洲崎パラダイス・赤信号」「幕末太陽伝」を撮る。「幕末太陽伝」の成果をもって東宝系東京映画へ移籍。当時新進シナリオライターの藤本義ーと死闘のすえ脚本化した「貸間あり」や、新藤兼人のシナリオによる浦安を舞台にした名作「青べか物語」を撮る。1962年「女は二度生まれる」、1963年「雁の寺」「しとやかな獣」と大映で与矢継ぎ早に作った作品は完成度の高いしかもユニークなものとなった。この年、6月11日の朝、東京芝の日活アパート9階の一室で静かに息を引き取る。傍らには「江戸商売図絵」と読み掛けの「中央公論7月号」が散在していたという。 松竹、日活、東宝、大映と場を移し、筋萎縮症の宿病をかかえながら、日本軽佻派を名のり、独自の喜劇を中心に、露悪的で含羞にとみ、卑俗にしてハイセンスな人間味溢れる数々の名作・迷作・奇作・珍作・駄作・問題作を世に送った。
1918(大正7)年 | 2月4日 青森県下北郡田名部本町(現むつ市)にて誕生 |
1935(昭和10)年 | 明治大学入学 映画研究部に入部 |
1938(昭和13)年 | 明治大学卒業 松竹大船撮影所・助監督採用試験合格/松竹入社 以降、島津保次郎、吉村公三郎、清水宏、小津安二郎、渋谷実、木下恵介らに助監督として付く。 |
1943(昭和18)年 | 監督昇進試験に合格 |
1944(昭和19)年 | ●「還ってきた男」公開(第1回監督作品) 時流に合わず、当時は不評であった。 |
1946(昭和21)年 | ●「追ひつ追われつ」公開 日本映画初のキスシーン ●「深夜の市長」公開 この作品の失敗により助監督へ降格 |
1947(昭和22)年 | 柳沢類寿、西河克己、小林桂二郎らと<泥馬クラブ>結成 ●「追跡者」にて監督復帰 |
1949(昭和24)年 | ●「シミキンのスポーツ王」公開(助監督:中平康) この作品の失敗により再び1年近くホサれる。 |
1950(昭和25)年 | ●「夢を召しませ」公開 監督復帰を果たすも、この作品の失敗により再び1年近くホサれる。 |
1951(昭和26)年 | ●「天使も夢を見る」公開(助監督:野村芳太郎) 好評を得る。以降プログラム・ピクチュアの量産に入る。 |
1952(昭和27)年 | ●「相惚れトコトン同志」公開(初めて助監督として今村昌平が付く) |
1954(昭和29)年 | ●日活へ移籍 |
1955(昭和30)年 | ●「愛のお荷物」公開 好評を得る。 |
1956(昭和31)年 | ●「洲崎パラダイス 赤信号」公開 言わずもがなの名作です。 |
1957(昭和32)年 | ●「幕末大陽伝」公開 これは日本映像史に残る傑作といってよいでしょう。 東京映画に移籍 |
1958(昭和33)年 | ●「暖簾」公開(撮影:岡崎宏三、脚本:藤本義一) |
1959(昭和34)年 | ●「貸間あり」公開 もっとも川島監督らしい作品? |
1961(昭和36)年 | ●「女は二度生まれる」(大映)公開 この作品を初めとする大映の3作品で若尾文子が女優開眼? |
1962(昭和37)年 | ●「雁の寺」(大映)公開 ●「しとやかな獣」(大映)公開 |
1963(昭和38)年 | ●「イチかバチか」公開 遺作となる。 キネマ旬報に「自作を語る」掲載(聞き手:白井佳夫) ●6月11日 芝の日活アパートの自室にて急死(享年45歳) |