三橋達也氏インタビュー 27
東京映画時代(2)
三橋 で、東宝に移るにあたって、中野さんと手を切った。
中野さんは、要するにマネージャーという肩書だけで
何もしなかったんですね。マネージャーがね、
僕の明日の撮影の予定を知らせてくれるわけでもない、
何にもしないんだから。
 
**** それで三橋さんのフィルモグラフィーでは、
東京映画へ移ってしばらくは、東京映画だとか
宝塚(映画)に出てるけれど、東宝は少ないんですね。
なぜか、歌舞伎座映画とかに出ているのは・・・?
 
三橋 それも、中野さんですね。
(僕を)動かさないとお金にならないから。
つまり、あれ(三橋)持ってきますから、
私にこれこれと・・・。
そういうことなんです、どうも。
はっきりとはつかんでないですけれど
 
**** 東宝本家に移ってからは、そっちの方が
メインになって、東京映画とか宝塚には
客演でたまに出る程度になった。
 
三橋 そうですね。
 
**** ですから川島さんとの仕事は
『花影』 (1961・東京映画) が最後に
なってしまったわけですが、
ちょうどそのころ、例の大映での仕事が
始まってますね。大映から戻ってきて、
変わられたような感じはしましたか。
 
三橋

いやその辺は知らなかったですね。
ぼくらはタッチしなかった。
なるたけ、そっとしといたんですよ。
非常に脂がのっているっていう
感じがしてましたからね。

三熊(将照)っていう大映のプロデューサーがいまして、
彼とは一緒に飲んだりなんかする
付き合いがありましてね、いざとなったら
連絡取れるんですけれども、
「脂がのっているんだから、タッチしない方がいい」って。
今平もそうじゃないですか。

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