三橋達也氏インタビュー 26
東京映画時代(1)
**** 松竹のころと違って、
プログラム・ピクチャーでも
それなりのものは仕上げるんですけど、
日活でのいくつかの名作、例えば
『赤信号』ほどのシャープなものが
少なくなっている気がするんですが。
 
三橋

確かにね。そりゃ、佐藤一郎さんあたりと
こう遊んで歩いた時代ですからね。
ギャラもぐっと上がったでしょう。

最後には東宝の本家の方で撮ってるわけですね。
川島組と成瀬先生とやった『夜の流れ』 (1960・東宝) 。
僕は成瀬先生の方なんです。
川島組はそうじゃない、宝田明と草笛光子の方。
僕はこっちの、山田五十鈴さんと、
その娘の司葉子に惚れられる板前の役で。
いい役だった。(笑)
 

**** あれは完全に分業だったんですか。
 
三橋

そうです。だけども、非常に両方とも
息が通じてたのか何か・・・。
息はよく通じててましたよ。

ま、それでね、東京映画へ行って、
さっき言った滝村さんが死んじゃって、宙に浮いて。
そこまで中野英治さんがいたんですね。

東京映画で2年くらい、もう食えなくてね。
僕は、自分の愛用の鉄砲まで売った。
それで2年ぐらいたったときに、もう僕を呼んでくれた
滝村さんがいないから、だれも手をつけない。

滝村さんとは表面的にはいいけど、
ホントはこうでしょ、佐藤一郎さんは。
滝村さんほどの大プロデューサーじゃないけど。

その佐藤一郎さんが、僕のために
銀座のギャングだった、界外五郎って奴が
自分を美化して書いた『銀座男爵』って小説を持ってきた。
銀座で一番、勢力を持っていた銀座警察っていう
ギャングがあったんです。そこの若いのだったんだけど、
女に惚れて、足を洗ってたんですね。
それが、佐伯幸三さんで撮った(僕が主演した)
『恐喝』っていう映画の原作なんです。
それでまた、僕はほめられましてね。
それがきっかけになって、東宝に呼ばれた。
その東宝に呼んでくれたのは藤本(真澄)さんです。

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