三橋達也氏インタビュー 24
日活から東京映画へ(2)
三橋

で、僕が日活にいた最後のころね。
滝村さんと彼(中野英治)が友達なんです。
やっぱり大スターだった人ですからね。
「こういう話、どうだ?」って。
話を滝村さんに会って聞いたら、
『驀走』って映画に出ないかって言うんですよ。
それは資料にはないです、つぶれちゃった話だから。
本田宗一郎さんの話、
それをモデルにした話なんです。

一番最初、滝村さんが目をつけたのはオートレース。
あれを見てびっくりしてね、
「これは迫力あるわ」っていうんで。
カーブするとき、鉄の靴を履いてるんですってね。
カーブを切るときに、火花がビャーッって散るんだって。
そこからヒントを得て、そんな話が。

本田さんが一代で、あのオートバイで
あそこまで行った話で、それの人生の前半ですよ。
やっとの思いで優勝してトロフィーをとって
うちへ飛んで帰ったら、その病身の妻が
死んでいたという話で。
それを当時の金で7千5百万円の予算超大作で
撮るからどうだ、っていう。
「わかりました。じゃ、ちょっとお願いします。」

その時は "五社協定 対 日活" だったんです。
それでちょっと待ってくださいって、
僕は山崎さんを通じて、日活へお伺いを立てたんです。
江守常務もOK、堀さんのところまで行ったんだと
僕は思ってたんですが。
ある日、山崎辰夫さんから呼ばれてね、
「おう、達ちゃん、OKになったよ。」

ありがとうございましたって言って、
僕はOKという返事をして、
東京映画まで行って、ちゃんと顔合わせもして、
それから衣装調べも全部して。
そしたら、その日に電話がかかってきて、
「アカン、あれはダメだ。あきらめてくれ。」って言う。
「どうして?」って言ったら、
「堀が怒っとる!」って言うんですね。

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