三橋達也氏インタビュー 23
日活から東京映画へ(1)
**** ところが『幕末太陽傳』を撮っているころには、
川島さんも日活の傾向が変わってきたので、
東京映画へいくという話になって、また三橋さんと
出会うんですけど、これは偶然だったんですか?
 
三橋

これはもう偶然ですね。滝村和男さんという、
大プロデューサーがいたんですけれど。
川島さんは滝村さんが引き抜いたんでしょうね。
ぼくはぼくでね、そのころ中野英治という
ヒトがぼくについてたんですよ、ずっと日活くらいまで。

さっきいった松竹で売り出しましたね。
売り出したら、さっそく大映が(僕を)買いに来たんです。
星野和平さんのところへ行く前ですよ。
それに一番熱心だったのが、川口松太郎さん。
「お、いい新人がいるじゃないか」って。
そしたら、さっそく中野英治が飛んできた。

彼は、日本のドンファンって言われて、
半分、これですからね。往年の二枚目ですよ。
女を次から次へとアレしてね。あんまり業績良くなくて、
スターの座を追われた人なんですがね。
そら、素晴らしい二枚目ですよ、日本人離れした顔しててね。
それがですね、戦後にですね、興行師がいろいろ
いるもんですから。「中野英治一座」っていうので
地方まわりをしてたりなんかして。
一回まわってお金入ると、もうやらないんですよ。
バクチ打ちでね。あとそれでバクチで
食っていけるような人だから。

その時、ぼくは新劇の研究生で、まだ売れないころでね。
戦争から帰ってきても、劇団たんぽぽも行きようが
ないですよ。劇団はありましたけどもね、
もう僕は舞台へは戻るまい、映画の方へ進もうと
思ったから、行かなかった。
2年くらいブラブラしてたわけです。

その間に話があってですね、昔の劇団仲間から話があって。
「おい、地方まわりでちょっと行かないか?」って言うんで。僕は「山路ふみ子一座」とかね、
「中野英治一座」へ借りられて、やとわれニ枚目で
行ったりなんかしてね。
それで中野さんと知り合いになって、
すごくかわいがってくれてね。いろんなことを教わった。
ホント、いいことも悪いこともね。みんな教わりました。
だから、僕をアレした、育ての親みたいなもんです。

それが早速飛んできて、
「私をマネージャーにしなさい。
大映へ今すぐ決める。」って言う。
いや、マネージャーっていったって、
まだこっちは『ああ青春』で注目されてるだけでしょ。
「大映へ行く気ないの?」って言うから
「いや、わかんない。」
「じゃあまかせなさい。悪いようにはしないから。」
って言って、アレしたら、
その中野さんが、まず(僕を)星野和平に預けた。
それで、大映には入らないで、いちおう
星野和平のアレで、大映に1年間です。
で、今度は新東宝行ったり。
それで松竹に行って、日活ですけど、
日活までで(星野和平と)手を切ったんです。

前へ戻る | 次へ進む

目次に戻る