No.8  1996年2月24日(土)

川島雄三寸感 一「深夜の市長」の魅力−

ラインホルト・
グリンダ


 川島監督は、戦中・戦後という極めて苦しい時代に早くから有能の評判を得、その後7年間、自分でもあまり面白くないと思われるブログラム映画を撮ったが、それからどうやって数社において戦後日本映画の中でも一番不思議な、互いに異色な傑作連を作り上げたのか?

 プロの精神と功名心のある監督なら、どのような映画を作り、どんな原作を映画化すれぱ良いのか、という勘も要したに違いない。この勘はある程度までプログラム映画により覚えられる。川島の松竹時代はそのために役立ったのだろう。『深夜の市長』から『お壊さん社長』までの7年間の後、松竹を離れてから『風船』『赤信号』のような優れた作品が生まれたのは思いがけないことである。

 川島の演出技術は、東京映画で録った数年間で一層完全となり、壮大な『赤信号』を除けぱ、日活の全作品を上回るほどの作品を撮ったのである。例えぱ『わが町』『幕末太陽伝』は、エビソードに分けすぎていて、散漫であり、場面の雰囲気は伝わってこない。しかし、『青べか物語』は、メロドラマ、ホームドラマ、ドタバタ喜劇、また推理ドラマまで含まれるが、互いにきちんと分かれて演出されながらも、これらのエビソードは常に同じ場所の雰囲気に新しい側面を加える。これは『青べか物語』の優れた点であり、この映画の集中性もここに見られる。

 なかでも、川島監督のうまさと集中性は、このワイド・カラーで尚更目立つ。同時に、この作品の視覚にも、技術にも、話の律働、配役と演技指導にも、また、台詞(特に無口な人物の台詞)と各人の描写と徹底した起用に関する集中性にも、監督のうまさと集中性が現れている。これは、非常に希有なことであろう。

 川島は、《映画はただ面白いテーマや人格を扱うのではなく、画面に見えるものが決定的であり、テーマや人格よりはるかに効果的である》という信念を持っていた筈である。『青べか物語』がやって退けたのは、特徴ある戯画めいた人物と、不可解な、味の深い人物とを一人一人相次いで登場させ、それらをお互いに結び合わせることで彼等の暮らしている場所の雰囲気を成立させたことなのだ。このような描写法は、洲崎という場所「青べか」の浦柏ほどエキゾチックではないが、充分エキゾチックな場所に相応しく、より単純な形で、r赤信号」において既に成功している。

 川島作品では、赤線が魅力的に描写されるが、それに陰鬱な生活感が混ざり合い、輪部のはっきりとした鋭い暗さが、映画の現実性を一層強める。『お嬢さん社長」の浅草とその地回り、『深夜の市長』の田舎町もそうであった。この顔を持つ町ややネオリアリズムらしい裏町と島津保次郎・蒲田を思い起こされる夜の社会。夜に合う危なさ、奇妙さが既にこの作品に現れている。

 『深夜の市長』の魅力は、余所にある。まず、二枚目役の安部徹がそれである。田舎者らしさ、実直性、控えめに見せる強い個性。二枚目なので恋物語もある。空あけみは、安城家の女中を演じたが、その《作ったらしさ》とは全然関係なく、服装でも、立ち居振る舞いでも、渋く、とても純粋で感動的な労働者家庭出身姿になっている。空と安倍は、マルセル・カルネらしい人物のように見える。空と安部の恋物語は、敗戦直後、犯罪、仕返しという暗い世相の中のおどぎ話のように見える。『深夜の市長』は、照明をまだ使いこなせなかったのか、スタジオ撮影とロケが一致できず、地方色と募囲気を照明によって組部にわたり描写する川島の特徴は未だ見当たらない。また、演技指導の遠慮にも、安部、空の場面の日常性にも、どこか伝統的な大船調が感じられる。この時点では松竹の特徴が川島の特徴より勝っていたのである。

 しかし、『深夜の市長』で一番意外なところは、第二のアベック村田知栄子と月形龍之介である。この2名優は、『深夜の市長』より何カ月も前に小石栄一、吉村廉両監督の『絢爛たる復響』に出演している。村田は後に『女は二度生まれる』にも女将役でいい演技を見せたが、月形とコンビを組んだのは上記の2本ぐらいであろう。村田知栄子の女王には、川島のセンスが顔を出す。村田のスター・クオリティを見せるように努めて、優雅に表現するが、優雅すぎるのは認めない。技術上、彼女の撮影は丁度よく撮るように余程注意したに違いない。優雅さと正直さ、花柳界と純愛という取り合わせは、『女は二度生まれる』の若尾文子や『夜の流れ』の若い女たちを思わせる。『赤信号』の轟夕紀子は、同じタイプのリアル版と言えるであろうか。

 この映画は、『桃中軒雲右衡門』『姿三四郎』の明治ものに成功した月形が、現代劇に出演するという試みの一つで、この種の代表作の『ジャコ万と鉄』より二年前であった。当時の月形が大映で殆ど脇役しか得なかったのは、戦後の大映の誤りの多い製作姿勢の一つの例であろう。昭和20年代の時代劇スターの中には、他社出演したり、同時に数社で働く人も少なくなかった。『深夜の市長』が作られたのもその時代であった。

 この作品は、月形・川島の唯一の作品であったぱかりでなく、月形の一生一本だけの松竹大船作品でもあった。月形は、初めから注目を集めるように華やかな衣装を身につけ、念入りな照明を受け、派手に登場する。しかし、ストーリ一の上では動きがない。更に、暴力団ののろのろとした振る舞いは、川島の無比のテンポ感とは対照的のようだ。しかし、これは監督の現実性を高める試みと見倣してもいいと思う。そののろさは、「原作のファンタスティックな犯罪小説」(柳沢類寿「へんな監督」)の精神のどおり、アクション物やヤクザ映画より表現主義に似ている。月形の死は、米画ジャンルよりルノアール等の30年代フランス映画を思い出させる。また、この夜のロマンスの柊わりを見ると、どうも『赤信号』を連想してしまう。植村謙二郎と轟夕紀子の嘆きは・・・

 川島は、どの作品でも成熟した真剣さをみせるが、この作品の後暫くの間真面目すぎるのは川島の弱点になってはいないだろうか。俳優もあまり巧く働かなかったようである。(『お嬢さん社長』の坂本武、特に『わが町』の辰巳柳太郎)しかし、『夜の流れ』rしとやかな猷』の戦後派音春像を除けば、日活以降の作品では目に付かない。『深夜の市長』は、円満でなく、実感もこもらない作品だが、この作品を初めの一本として見た人は、これを作った人の映画をもっと見たいと思うに違いない。

ゲチンゲン大学亜細亜学研究所にて

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