「オオ!市民諸君」を観た。こんな愉快な映画を親たのはほんどうに久しぷりのことだ。登場人物一人ひとりのユニークな存在感、スクリーンいっぱいに響きわたる歌声、一見でたらめにおもわれる物語展開、それらのすべてがあいまって観ているぼくらの心の中は「笑い」で満たされ、なにか自分たちのありふれた日常生活が嘘っぼいものにさえみえてしまうほどだった。
ここでぽくが思いだすのは、意外にもロシアの映画監替ボリス・バルネットのことです。
「バルネットの映画を仏頂面で迎えるには、本当に石のように無感覚な心の持ち主でなければならない」
こう云ったのは若き日のゴダールなのだが、まるで川島雄三の映画について語られているかのようではないか。事実川島雄三とボリス・バルネットとのあいだには、さまざまな共通点があるように思えます。これについてはじっくりと考察してみる価値があるのですが、ここでは川島の「オオ!市民諸君」とバルネットの「青い青い海」についてすこしだけ書いてみたいと思います。
この二つの映画は、どちらも海に浮かぷ小島が舞台となっていて、どちらも一見ミュージカルとおもわせるほどさまざまな歌声にあぶれています。しかもロマンチックコメディでもある。しかしそういった表面的な類似点はさほど重要なこどではありません。それよりもその語り口にこそ二人の真骨頂があるのです。
たとえぱ、「オオ!市民諸君」のなかで宣伝映画の撮影シーンが出てきますが、あれなどほあきらかに戦争中の「国策映画」のパロディであるのでしょうし、一方「青い青い海」では、漁業コルホーズにおけるラヴロマンスどいう設定自体に作者のアイロニ一があるはずです。もし「社会派」といわれるような監督が撮ったのなら、いかにも退屈でつまらないものになったであろう題材を、いともたやすくしかもさりげなくコメディにしてしまうところに、この二人の監督の「話術の天才」を感じないわけにほいきません。
それにしても歴史とはときに残酷なものです。これほど才能のある人達が、生前は正当な評価をうけていたとはいいがたいからです。
川島雄三の映画は、いわゆる「日本映画」の衰退とともに忘却の淵に追いやられざるをえなかったのだし、一方ボリス・バルネットの映画は、その天性の自由さが災いして、当時のソビエト政府によって不当な扱いをうけたうえに、当のバルネット自身もアルコールに依存したあげくに自殺してしまいました。
いつの世でも「天才」に悲劇はつきものなのかもしれません。しかし、そうであっても現在を生きるぼくらは、はるかロシアの地から響いてきた島唄と、ばくらのこころの底で響いていた島唄とが、映画という記憶の中で美しく共存できることを素直に喜びたいど思います。
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