No.6  1994年7月9日(土)

ミーハーでごめん!川島雄三映画感想文

上野明子


 珍しく順調に休みがとれて、高田馬場ACTミニシアターでの川島映画特集に何回か通うことができた。川島探検には乗り出したばかりで貧弱な感想ばかりですが、自分自身の記録として書いてみました

「グラマ島の誘惑」

 初見。ずっごくオシャレ。森繁とフランキー堺の皇族軍人ブラザースのョーロッパナイズぷりが傑作。のっけから「あ、あれはアルバトロスだわ」だもの、驚いた。脚色川島雄三の皇室内カルチャーに対する考察ぶりが興味深い。皇室というより細川さんの世界だが。今時はこんな風に皇族をギャグにできる人もいないし、時代の空気もない。

 皇太子(現天皇)と美智子さんの結婚の時期に作られた映画か、二人を描いたオリジナルな壁面や羽子板があったり、女優たちが孤島で果物を捧げもつ場(画)面が、まるで関根正二の『信仰の悲しみ』そのものであるところなど、小島塞司という人の美術がとくにオシャレだった。こういう映画がすきなんだ。

「貸間あり」

 初見。登場人物達の熱気。おたがい触りまくりコケまくり全く騒々しいのに、突然「サョナラだけが人生だ」だもの、熟くて同じだけ凍っている。

 口ハコの問題だろうか。人や金が出入りする口場所を自分自身にナゾらえると、そこに空虚の風が吹く。人間口ハコ説。フェテッシュな賃間札の主は、小金治よりもやはりフランキー堺が演った方が、貸間札がカラカラとよく回ったような気がする。(山茶花究が演ったらホラーになったかも)

 フランキー堺の先生は、淡島千景から結局遂に逃げ切ったんじゃあないだろうか、と女としては一抹の不安を感じました。(ィヤ、きっとそうだぜ。)

 小島基司氏の美術に注目。淡島千景の造る陶芸作品が50年代ァートしている。時々出てきた画廓もまた口ハコです。

「雁の寺」

 初見。美人の友達と一緒に見にいったのだけど、彼女は三島坊主に死なれた若尾文子が今度は誰に面倒みてもらえるのだろうかど、そればかり気になって落ち着かなかったそうだ。わたしはというと、ついマイナーな奴(慈念)に肩入れしてしまい(うぬら三島坊主、いつか仕返ししてやる、の魂)になってしまい一一慈念君を、たとえ罪は犯していても、一瞬でいい、最後に神々しく薄かせてやりたかった。あんなコワイ顔のアッブで消えるなんて、ちょっと許せない気がずる、が、そうか、ここで甘くないのが川島流なんだよね。

 とても不穏な白黒の色調で、慈念には糞尿ひっかけられそうだったし、本当に生理的にキツい映画でござんした。

 他に『女は二度生まれる』『青べか物語』『しとやかな獣』を見ることができました。どの映画も山茶花究がステキ。こわい。『青べか物語』の森繁には「何気取ってやがんでい」と反発しましたが、『グラマ島の誘惑』そして『暖簾』の仏壇前の足技など思い出して、遅れ遅ればせながら大ファンになっちまいました。今の森繁がいくら呆けていたって全然関係ないわ。『夫婦菩哉』を見ます。それから美術・小島基司の仕事を追いかけて、古い日本映画を見続けようとおもいます。

<カルト> 断絶宣言

加藤功


 もうたくさんだ。うんざりさせられる。みんな、いい加減に <カルト> および <カルトムービー> という言い方をやめようではないか。映画を称賛するのであれ、侮蔑するのであれ、ドロりと濁った鼻持ちならない言棄になってしまったのだから。

 何故私がカルトムービーという言葉に嫌味を感じるようになったか、もう少し具体的に説明しよう。端的に言って、言葉の定義する内実が当初のそれと、現在世間に流通しているそれと、とんでもなくズレてきてしまったからなのだ。

 しょせん、「流行語」とは多かれ少なかれ、そんなものだと思いつつも、ある時期までこの言棄を頻繁に使い、それなりに愛着をおぼえていた者としては、文句のひどつも言いたくなる。

 世間一般での了解事項としての <カルトムービー> 。多分こうだろう低予算で作一られ、小さな劇場で上映された、有名俳優も出ておらず、なじみのない、あるいは逆にありふれた題材を、一部の愛好者にしか解らないように撮った映画。

 一方、当初にカルトムービ一とはその前に、映画製一作者・監督のロジャー・コーマンの典味深い発言を紹介しておこう。

 「『スター・ウオーズ・帝国の逆襲』は近い将来、カルト化するだろう」

 昨今のマスコミの安易なくカルト>乱発に毒されると、上記の発言で目の前のウロコが落ちるような気にもなる。いかがでしょう?

 つまり、カルトムービーとは、当の映画が大予鼻で作られたとか、個人のポケットマネーに等しい額で作られたとかの製作状況や、ヒットしたかしなかったかの封切り時の興行状況どは関係なしに、宗教信者のごとくに熟狂的なファンを生み出さずにはおかない、強烈なカリスマ的魅力を持つ映画のことではなかったのか。

 さらに付け加えるならば、マニアックであったり、いささか閉鎖的でありつつも、あくまでも能動的な観客主体の、興行的にも批評的にも成果を上げられなかった映画・紋切型の評価・注釈を与えられて放り出された映画(例えば、『市民ケーン』はいつになったら「オウソンウェルズ最高傑作」や「パンホーカスの映像」から解放されるのだろう?)をサルベージする際に用いられる分額・呼称が、カルトムービなのだと思う。

 最近、ときどき見かける一部の映画関係者、それに追従するマスコミの無茶苦茶な <映画カルト呼ばわり> にはあきれるばかりだ。よし、もう <あちら側> 入々の言葉になってしまったものに用はない。カワシマクラブの他の人たちはいざ知らず、わたしはこれから川島雄三の映画に対し、 <カルト> の一語を使用することを、キッパリやめたいと思います。

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