No.4  1993年10月2日(土)

『積極的逃避』小論

嶋岡邦英


 川島雄三監督は『幕末太陽伝』の撮影中、助監督の今村昌平に「この映画のテーマは?」と聞かれ、「積極的逃避」と返事した。その時、今村昌平はその言葉の意味がよくわからなかったと後に述懐している。

 その『積極的逃避』について、独断と偏見で解釈してみたい。ただし、そのテキストは『太陽伝』ではなく『貸間あり』を使う。こちらの方がより『積極的逃避』というコンセブトを具体化していると思うからである。

 主人公のフランキー堺が演じる与田五郎は、この映画の後半で、当面の間題を回避するためにどこへともなく一人逃げ出してしまう。私に言わせれば、この行為こそが『積極的逃避』なのである。では、『積極的逃避』とは?

 あるケースを考えてみる。太平洋戦争中の日本、国民は誰もが「天皇陛下万歳」と叫んでいる。そんな中に反天皇論者が一人いて、天皇賛美することはいかなる物も一切拒否する。彼が自分の意見を声高に主張しないまでも、その行為によって、いつしか周りの人にどういう思想を持っているか知られてしまうだろう。当然、周りの者は彼に反感を抱く。

 権威に弱く、また周囲の目を気にしすぎて自分本来の考えを二次的な物としてしまう日本人。その社会の中で、一人の人間がまわりと反する信念を持ち、その信念に従って生きようとすれば当然まわりとの軋轢が生じ、下手をすれば抹殺されかねない。かといって信念を曲げてまわりに同調するくらいなら生きている意味がない。

 それでは、全体の流れに逆らう人間に生きていく道は無いのか?それはある。簡単なことだ、その共同体から逃れて、自分の信念にあった別の共同体に移り住めばすむだけである。

 ある一つの問題に直面した状況で、自己の存在を否定しなければそれが解決しない場合、人間はその状況から逃げるべきである。ましてや、それが相手は大多数で味方はナシなどという勝ち目の無い場合ならなお一層のことである。ファシズムは無論、民主主義といえども少数者には冷淡なのだから。

 問題に直面しながら正々堂々戦うことなく逃亡するこどによって、それを誤魔化してしまうのは卑怯と思われるかもしれないが、強者はともかく弱者はみすみす敗れるとわかっている勝負に挑むのは無謀すぎる。生きてナンポの世界である。『敗者の美学』などと気取っても死んだらそれまでだ。むしろ積極的に逃亡するべきだ。逃亡することは恥ずかしいことではなく、大変重要なサバイバル術であると考えるのだ。

 だが、ただ逃げるだけでは駄目で、逃げてからも他の共同体で暮らしていく生活手段を持っておかなければならない。当然、逃げる前にその準備をする必要がある。では、その準備とは?答えは与田五郎のような人間になることだ。

 与田五郎は一種の万能人である。数カ国後に堪能で、小説、論文、翻訳を手がけ(いずれも代作だが)、さらにコンニャクの製造とキャベツ巻の巻き方の権威でもあり、わけの分からぬ機械の発明もする。小和田雅子と竹中労、さらに土井勝と中松義郎を合わせたような人物といえる。これだけの技能があれば、どこの国へ行っても食うには困らないだろう。

 出来るだけ多くの知識を、浅く広くではなくて、深く広く持っている人間だけが『積極的逃避』を可能にずる。まさに与田五郎はその体現者である。(『太陽伝』の居残り佐平次もそうといえるかもしれない)。

 極論すれぱ、川島雄三が言った『積極的逃避』どいうコンセブトは、我が国に再び訪れるかもしれない軍国ファシズムに対して弱い一市民ができる唯一の抵抗マニュアルである。

『とんかつ大将』を見て

鈴木祐介


 『とんかつ大将』は川島雄三の第12本目の作品であり、1952年彼が34歳の時の作品であります。彼は前年から、商売監督として会社の気に入る作晶を作らざるを得ない状態でこの作品に臨んだが、後に彼が言っているようにこの作品はちょっと達う。

 そのちょっと連う所は少し置いといて、ストーリーから・・・。佐野周二演じるトンカツ大将は、医者でありながら本業もろくにしないで、長屋にて生活している愛すべき人間である。彼はひょんな事から長屋の地主である佐田病院の令嬢・真弓(津島恵子)と出会う。同じ医者として二人は意識し合うが、大将は数年前の戦争時に別れた恋人・多美(幾野通子)を想っている。その多美が旧友丹羽の妻になっていて幼椎園に通う子供までいた。しかも丹羽は仕事もせず、悪だくみの片棒をかつごうとしている。その悪だくみのために自分の生活している長屋が危ない。真弓もからんで話はクライマックスへ。さて、トンカツ大将の正体はいかに・・・。

 オーソドックスな話でありますが、所々に並々ならぬ才能が光っている。まず出合い、長屋の太平の商売物(ダルマ)を真弓の車がひっくりかえす。そこに通りかかる大将、というシーン。そのカットが鮮明なこと。この映画のタイトルとキャスティングの部分のフィルムが紛失しているから、そのカットはより衝撃的な印象を与えるのかもしれない。その他特筆したいカメラワークが一か所ありますが、これは見た人だけの秘密ということで・・・。

 キャスティングも三井弘次、高橋貞二など、個性派ぞろいの若手(その頃はまだ)を起用し、登場人物もよく練られて書いてある。特に登場人物の中で、主人公のトンカツ大将(佐野周二)- 彼の楽天的なキャラクターは、その後の作品におけるフランキー堺の役に多少なりとも重なるどころがあるのではないか。

 そして最後に英雄なりしトンカツ大将は、なごりおしそうなみんなを残して去って行くと、まことに普通の商業映画なのだが、私は後期の川島の作品はここが出発点の一部だと思える。

 *別冊「文芸春秋」に白井佳夫氏が、毎回一つの映画を取り上げその魅力を語る『日本映画名作劇場』という連載を持っています。最近号(第204号[夏]に川島の『洲崎パラダイス・赤信号』について書いているので参考までに・・・。

『女は二度生まれる』についてのおしゃべり

園部智子


私が日本映画をほとんど見なかったころ、「日本映画にも面白い映画があるよ」と紹介してくれた人がいた。それが川島堆三の『幕末太陽伝』や『しとやかな獣』だったために、すっかり川島ファンになったというわけなのだが、これは本題ではない。本題はというと、ずっと昔から日本映画、とりわけ川島映画のファンであったこの人が、「どうも『女は二度生まれる』はよくわからない。何度も見るんだけどもね」というのだ。「あら、鑑賞力が弱いのじゃないの」と思わず僧まれ口をきく私。

 「話が申途半端だしさ、『しとやかな獣』みたいに女のしたたかさを描いているわけじゃないしさ、ラストが尻切れとんぼだしさ」「ぷ一ん、しばらく前に見たので細かいところは覚えていないけど、そんな印象はないわね。同じ若尾文子というわけでもないけど、この映画があったから『しとやかな獣』ができたのではないかなと思ったことを覚えているわ」そう答えたものの、気になって、もう一度ビデオで見直してみることにした。

 『女は二度生まれる』(昭和36年)は、大映で初めて撮った作品で、原作は『とんかつ大将』と同じ宮田常雄である。この5年前に『洲崎パラダイス・赤信号』、4年前に『幕末太陽伝』、この翌年に『雁の寺』『しとやかな獣』を発表している。私が好きな川島の代表作品の間に作られた映画である。

 ビデオを見直してみた感想から言うと、なかなか好感の持てる作品だった。簡単な映画解説では「軽い喜劇タッチ」とある。話の運ぴはそうなのだが、見終わったときの感じはどちらかというと軽くない。

 主人公は芸者の小えん。お金次第、男次第で流されているように見える彼女の " 塞翁が馬 " のような人生を描いている。売れっこの芸者であったのに、警察に売春を密告されてバーのホステスに、そこでパトロンをみつけるが、病気で死んでしまう。その間にいろいろと男に出会うが、主体性がなくて、損することも多い。かといって、わびしいぱっかりというわけではない。藤巻潤の演じる学生や、お客の一人であったフランキー堺が演じる寿司屋のぷんちゃんには、ほのかな恋心や親しみの心があるが、うまくいかない。行きずりで知り合った少年には、セックスの手ほどきをするあねご肌のようなところもある。

 でも、2号さんになるなどは極端にしても、今時のOLに置き換えてもありそうな話じゃないかな。一つ一つの話が上手に完結していないことで、川島映画を紹介してくれた人はいらだっていたが、日常の生活なんて、何事も始まりも終わりもそんなにはっきりしていないのじゃない。生きていく年月が長くなるにしたがって、すぐには解決できない間題が増えていくばかり。そんな意味で、不思議な存在感のある映画だ。いい人、悪い人だって、いいこと、悪いことだって簡単にはわけられないこどもあるじゃない。

 ラストは唐突といえば唐突で、上高地へ向かう途中の駅で少年と分かれ、小さな駅でぼつねんとしている小えん。「これからあなたはどうするの」と思わず見ている私は語りかけたくなってしまった。

 そして、これは仮説だけれど、きっと小えんねえさんが、女を武器にできることを悟ったら、『しとやかな獣』のしたたかな会計の三谷さんになれるのではないかしら。「私れえ、主人に死なれて、生きることの意味を生まれて初めて真剣に考えたの。それで、女の弱点を思い切って使ってみようと思ったのよ」(『しとやかな獣』)という女にね。音楽も同じ池野茂で、邦楽を多用しているせいか、そのように思うのかもしれない。

 彼自身も「この作品も評判はよくありませんでしたが、僕としては好きな作品でず。僕は実存主義にかぷれているわけではないが、人間の内部体験として何かが起こった。それが何かはわからぬが、確実に何かが起こった、というのがこの映画のテーマなのです。それがわからずにすまされたと思います。ただ風俗映画とだけ見られたのは残念です」(『自作を語る』)と語っている。

 今まで、先にあげた4作品に次ぐ5番目の好きな作品を決めかねていたのだが、この作品もいいなあと思った。

会報のトップページに戻る