川島雄三監督は『幕末太陽伝』の撮影中、助監督の今村昌平に「この映画のテーマは?」と聞かれ、「積極的逃避」と返事した。その時、今村昌平はその言葉の意味がよくわからなかったと後に述懐している。
その『積極的逃避』について、独断と偏見で解釈してみたい。ただし、そのテキストは『太陽伝』ではなく『貸間あり』を使う。こちらの方がより『積極的逃避』というコンセブトを具体化していると思うからである。
主人公のフランキー堺が演じる与田五郎は、この映画の後半で、当面の間題を回避するためにどこへともなく一人逃げ出してしまう。私に言わせれば、この行為こそが『積極的逃避』なのである。では、『積極的逃避』とは?
あるケースを考えてみる。太平洋戦争中の日本、国民は誰もが「天皇陛下万歳」と叫んでいる。そんな中に反天皇論者が一人いて、天皇賛美することはいかなる物も一切拒否する。彼が自分の意見を声高に主張しないまでも、その行為によって、いつしか周りの人にどういう思想を持っているか知られてしまうだろう。当然、周りの者は彼に反感を抱く。
権威に弱く、また周囲の目を気にしすぎて自分本来の考えを二次的な物としてしまう日本人。その社会の中で、一人の人間がまわりと反する信念を持ち、その信念に従って生きようとすれば当然まわりとの軋轢が生じ、下手をすれば抹殺されかねない。かといって信念を曲げてまわりに同調するくらいなら生きている意味がない。
それでは、全体の流れに逆らう人間に生きていく道は無いのか?それはある。簡単なことだ、その共同体から逃れて、自分の信念にあった別の共同体に移り住めばすむだけである。
ある一つの問題に直面した状況で、自己の存在を否定しなければそれが解決しない場合、人間はその状況から逃げるべきである。ましてや、それが相手は大多数で味方はナシなどという勝ち目の無い場合ならなお一層のことである。ファシズムは無論、民主主義といえども少数者には冷淡なのだから。
問題に直面しながら正々堂々戦うことなく逃亡するこどによって、それを誤魔化してしまうのは卑怯と思われるかもしれないが、強者はともかく弱者はみすみす敗れるとわかっている勝負に挑むのは無謀すぎる。生きてナンポの世界である。『敗者の美学』などと気取っても死んだらそれまでだ。むしろ積極的に逃亡するべきだ。逃亡することは恥ずかしいことではなく、大変重要なサバイバル術であると考えるのだ。
だが、ただ逃げるだけでは駄目で、逃げてからも他の共同体で暮らしていく生活手段を持っておかなければならない。当然、逃げる前にその準備をする必要がある。では、その準備とは?答えは与田五郎のような人間になることだ。
与田五郎は一種の万能人である。数カ国後に堪能で、小説、論文、翻訳を手がけ(いずれも代作だが)、さらにコンニャクの製造とキャベツ巻の巻き方の権威でもあり、わけの分からぬ機械の発明もする。小和田雅子と竹中労、さらに土井勝と中松義郎を合わせたような人物といえる。これだけの技能があれば、どこの国へ行っても食うには困らないだろう。
出来るだけ多くの知識を、浅く広くではなくて、深く広く持っている人間だけが『積極的逃避』を可能にずる。まさに与田五郎はその体現者である。(『太陽伝』の居残り佐平次もそうといえるかもしれない)。
極論すれぱ、川島雄三が言った『積極的逃避』どいうコンセブトは、我が国に再び訪れるかもしれない軍国ファシズムに対して弱い一市民ができる唯一の抵抗マニュアルである。
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