No.2  1992年9月19日(土)



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私の好きな私の作品 『愛のお荷物』
   『シナリオ』1963年6月号より転載

柳沢類寿


 私は、その性温順一一いや単純にして楽天的一一いやお芽出たい人間なのて、当然のことながら自分の関係した作品は全部好きてある。我が人生最高の喜びは完成試写、又はオン・エアを見ることである。出来得べくんば、一切の執筆中の苦悩を忘れ、ギャラの安いことや未収など気にかけず、心おきなく演出を鑑賞し、演技を批判し、気楽に手前の創作したアイディアの具象化を楽しみたい。この時の姿勢は出来るだけ楽な方が良いのて、映画会社の試写室の固い椅子を私は好まない。テレビはその点、楽しきわが家のソファーでひっくり返って見られるので嬉しい限りである。
 それにしても、君の好きな君の作品は?と問われれぱ、今は昔、日活製作再開当時に作った川島雄三監督の「愛のお荷物」てあろ。さしたる理由もなく、強いていえば余りメソメソした制約なくカラッとした映画が作りたいと、松竹から日活へ川島雄三と一緒に移ってしまった。
 そして彼の移籍第一回作品の企画が難航していたので、たまたま見た芝居のアンドレ・ルッサンの「あかんぽ頌をやろうといって、 当時新劇嫌いの監督を引っばって行って見せたのがきっかけだった。映画化の契約をキチンとする約束で、二人で京都へ本を書きに行った。会社から旅費を十万円ふんだくって、川島監督が会計を引受け、「コーヒー二ツ八十円。週刊誌三十円・・」などと日航のシートで川島先生がたどたどしくメモをしていたのを覚えているしかしこの会計メモは長続きせず、祇園あたりの勘定に数十万を要したとか・・。そんなことはライターの僕は知っちゃあいない。
 ところが東京から電報、電話て映画化権が取れぬと報告が来て一一がっくり。急遽原作を離れるので四苦八苦した。しかし出来上った作品は非常に面白かった。私は川島演出の上手さにシャッポを脱いだ。そして勿論、脚本だって良かったんだと自負している。十六ミリ・プリントで想い出の多い作品を手元に集めて置きたいと考えている。「愛のお荷物」は必ずほしいと思う。
 好きな作品を一本に限ることはない。日活時代の軍艦旗シリーズ二本も好きな写真だ。脚本の出来は余りよろしくなかったがロマンチック・スラップスティ ックとでもいわして貰おうか、あんな馬鹿な(?)ものはなかなか出来ないと思っている。春原監督にはいろいろ教えられたし喧曄もした.わが十六ミリ・ライブラリーに収録しようと計画中だ。
 テレビでは今年の正月に日本テレビの帯番組「ねえさんと私」で「東洋の魔の手」というスラップスティック、作者自身が手を叩いて喜んじやった出来栄えだったが、モニター評は惨々・・。テレビは消えてしまうんでっまらない。テレビ映画では、気に入った作品のプリントを焼き増して貰って既に大分たまっている。時々引張り出してわがパラック映画館で上映するのだが、楽しい限りである。金子精吾、藤原杉雄、金子敏、諸監督の傑作が所蔵されている。
 「愛のお荷物」や軍艦旗シリーズ、その他だんだんレパートリ一を増す予定てある。それからこれは私事ではあるが、わが八ミリ映画にも傑作は多い。なかんずく五九年モスクワ映画祭とョーロッパ旅行のカラ一は、文字通り私の好きな私の作品一一。私は、良い職業を選んだと思っている。



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しとやかな映画論 川島雄三の映画

安生幸司 


[比較]
 前田陽一は、戦後荒廃した焼け跡を見て育った世代。屈析したノスタルジーを「にっぼんパラダイス」に見ることができる。戦前、吉原で栄華を誇った待合が空襲によって崩壊する。昭和20年、民主主義とともに新しい性風俗をもたらす。和服から洋服へと外見が変わった女たちが、米兵相手にしたたかに生きてゆく。その中で一人だけ和服姿で旧態然で生きる女がいた。そんな女に惚れた男がいた。彼の誠意には、体を提供するだけで満足し、冷たく孤独に生きていく。彼女は売られてくるまて、どのような生活を営んできたかは判らない。過去と現在の交錯を再び、川島作品で確認した。
 川島雄三、成瀬巳喜男共同監督の「夜の流れ」がそれである。待合の女将(山田五十鈴)、その娘(司葉子)、板前(三橋達也)の三角関係を待合に出入りする芸者たちの姿とともに描くメロドラマである。成瀬監督はこの手のドラマの得意手だが、白井佳夫によれば「この映画の主要な部分は川島が担当し、滑稽な笑いを成瀬が担当した」と言うことである。ということは、主要な部分つまりメロドラマは川島が担当したと言えよう。このような三角関係が破綻し、娘が板前のアパートに怒鳴り込んでくるシーンがある。板前は、これ以上女将との関係が不可能だと察し、神戸へ行く身支度をしている。娘は、板前をあきらめ、母との結婚をすすめる。
 しかし、彼は拒否し神戸でやり直すと言い張る。娘は彼の弱気をなじる。板前は弁解する。「私はいったん死んだ身ですから。」娘「あなた、そう言っていればみんなからかばってもらえると思っているのよ」板前のセリフの背景には、厳しいシベリア抑留の体験が息づいている。帰国後十年あまり彼は苛酷な体験が脳裏に焼き付きそこから抜け出ぜないでいる。それに彼の片足はそのために不自由、であった。
 「にっぽんパラダイス」「夜の流れ」とも男女の違いこそあれ、戦争の傷痕を描いていることでは同じである。このような苦痛を描くことの是非は別としても昭和30年物質文明の幕開の時代にズレを生じた人間を描くことで、何か世に訴えたいものがあったにちがいない。特に川島は何かにこだわっている男、不自由な男に未練があったのかもしれない。

[生きざま]
 前田陽一がノスタルジアに酔うならば、川島はリアリストの部分で生きている。死の恐怖としたたかな生命感を心の中に押し殺している。そして絶えず二つが天秤棒で揺れている。川島の代表作「幕末太陽伝」の主人公佐平次(フランキー堺)は、川島の心の照射の産物である。この主入公のモトになったものは、落語の中の「居残り佐平次」であった。落語の筋はこんなである。調子が良くて、頭の切れる佐平次は、品川の待合に泊まる。
 しかし、銭は払えるわけでもなく、番頭をだましては明日払う、明日払うと言って延ぴ延ぴにする。そのうちにお客の御機嫌をうかがってはおあしをもらい、調子がいいものだから人気が出る。芸者衆にもうけがいい。困ってしまうのは、番頭たちで、自分たちの職を奪われてしまった格好だから具合がよくない。番頭たちは、だんなに意見し、それではということで、佐平次にお金と羽織を持たせて「勘弁しておくれ」ということになる。
 川島や今村昌平たち脚本家は、こういうキャラクターの佐平次に胸を患わさせた。一人でいる時、せきをさせ、部屋に上がるとよいしょをさせた。ここに息せき切って生きていく佐平次の姿がある。必然的に佐平次は、ニヒルな男として描かれている。ニヒルなだけに笑い方にも特徴がある。余談になるが、この笑い方を見て、エースのジョーの不敵な笑いを思い出した。あのひきつった笑いである。世の中を斜にかまえた生き方それに近い。とにかく、佐平次の押し殺した笑いは、純粋な笑いを提供しない。彼の鬼気迫る生き方がグロテスクにもその様相を表す。

[笑い]
 純粋に笑える映画に「貸間あり」がある。一見、人の良さそうに見える予備校生(小沢昭一)がこれまた人の良い学者(フランキー堺)を尋ねるところから物語は始まる。予備校生は学者を模擬テストの受験生にさせ、自分が頭のいいことを郷里にいる両親に報告している。これも一つの親孝行ですと予備校生は言う。ついに彼は、学者に大学の替え玉受験をやらせようとする。しかし、学者は自分の入の良さに嫌気がさし自暴自棄になる。その人の良さの破綻がこの映画のテーマであるように思える。もうひとつ特徴をあげると、掛け合いのおもしろさにある。藤本義一を脚本家に迎えたことによって個人のやりとり、問合いを取り入れた。多くの人間が有象無象する。

[所感]
 川島作晶が上映される機会は、ほどんどない。たまに、「幕末太陽伝」や「洲崎パラダイス・赤信号」がテレビの深夜枠で放映されるぐらいである。数少ない上映の機会で見た川島作晶には、全部が全部とまではいかないまでも映画全体にドライな感じがする。
 例えば「洲崎パラダイス・赤信号」では、社会に不適応な一組の男女が描かれているが、被害者意識がない。映画のラストで「また、だめだったわねえ」と橋で停んでいる二人。「しょうがねえや」二人の横をバスが通り過ぎる。「なんとかなるよ」二人は、大急ぎでバスを追いかけ、カメラは俯瞰し、二人を乗せたバスは走っていく。ドタバタもよいが、このようなドライ感覚は日本映画には珍しい。川島映画は、日本映画の中、大変貴重かつユニークな存在である。



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私の好きな作品あれこれ

花島晟信


 私の川島作品の中でのベスト3を選べば、一位が「洲崎パラダイス赤信号」続いて「女は二度生まれる」「還って来た男」の順になろうか。この中で川島雄三らしさの臭い紛々の作晶は‘女は二度生まれる’である。ファーストシーンからラストシーンまで川島トーンというか、なにか他の文芸物にない派生物があるように思う。例えば、問題のラストシーンのあのショットは何を意味するのか。そういえば、やはり「雁の寺」でもまた白黒映画がラストシーンだけカラーとなり、真意は何だろうと考えさせられたが・・・・。

「北京のセールスマン」の中でァーサー・ミラーが、演劇は多義性で成立する、との意味をしばしば言及しているが、映画も全く同じであり、名画と言われる作品には、多くの含みがあり、何回同じ作品を見ても新たな発見があるものである。この点「女は二度生まれる」のラストシーンの一人ぽつねんと座る若尾文子には、不可思議な、これからの生まれ変わりを象徴するようでいて何とでも解釈できる曖昧さがあり、私は大好きである。その他にも個々のディティールに忘れられないシーンが数々あるが、あの靖国神社の裏手の私娼家で聞こえる太鼓の音は、川島雄三らしさで唸る思いである。さらに、寿司屋の開店前のシーンでの第九交響曲の響きの空しさ。とにかく、「女は二度生まれる」には、他の文芸物にない仕掛けに溢れる作品であった。

第一作の「還って来た男」は、映画監督川島雄三の面目躍如の作品である。あの時代にあのように時代の痕跡の希薄な作品が、かってあったであろうか、と思わせる映画であった。確かに物語りは戦争から還って来た男の周辺の話であり、軍医であった男が復員し、身のふり方のエピソードである。確かに1944年制作の物語であるけれども、これほど時代性を払拭することは希有なことであろう。さすが川島雄三である。「還って来た男」のファーストシーンは、階段であり、後の川島作品の原型がすでに表れている。階段=坂と便所は川島がこだわり続けたものであった。

「洲崎パラダイス赤信号」は、作品としては最も完成度の高いものであり、主演の新珠三千代の代表作といってもよいであろう。洲崎地獄へはまりこんだ女と男の泥沼の足掻きである。この映画は川島雄三作品の最高峰である。数々の忘れられないシーンがあるが、一つだけあげると、やはり階段で、男が刺されて、人々がわれさきに降りて行くシーンでは、何が起きたのか解らない不安が画面に滲み出てくるような見事な演出であった。情痴映画の傑作として、日本映画史上に残る作品である。

 今まで見た作品は、そう多くはないが、その中で三作品以外では「貸間あり」は印象に残った作品であった。見て“なんだこれは1”というのが第一印象であった。ちょうどジャンルが違うが芝居における、つかこうへいの作品に匹敵するような感じである。出てくるキャラクターが、その破天荒、メチャクチャさは、まさにつかこうへいの世界を10年以上も前に先取りしたものだ、といってよい。もし、川島雄三が死なず続けて活躍していたら、この傾向の傑作が生まれていたであろうにと思うのは、私だけではないだろう!今まで見た作品は、全部の半分もいかず威張れたものではないが、好きな作品として思いうかべてみた。私の川島雄三感としては、結局、あまりに器用貧乏だったのではなかろうか、という思いが強い。適当にプログラムピクチャーもこなしながら、それにはまりきれない才能をもてあまし、浪費させてしまった。川島雄三に、世渡り、処世を期待するのは、どだい無理だろうが、生きていたら「貸間あり」の延長上に傑作が生まれていたと想像する。それは一体どんな作品であろうか・・・。


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阿佐ケ谷映画村川島ニュープリント作品上映会大盛況!


 昨年末、松竹の協力を得て、私達カワシマクラプによって封切以来のニューブリントが実現した「笑ふ宝船」「追ひつ追はれつ」の初の一般公開となった、≪白井佳夫の阿佐ケ谷映画村》上映会[7/11(土)]ヘの参加レポートをお届けします。いずれの作品も短編ということで、むつ市での映画祭に当たって復刻された「還って来た男」との豪華三本立となりました。この日カワシマクラブからは、私を含めた4人が参加し、ロビーで開映を待っていると、目の前の受付を次から次へとお客様が通り抜けて行き、かなり広いど思われたホールが、見る見るうちに埋まってゆく様は圧巻でした。
 後からの報告によれば、映画村史上最高の135名もの動員を記録したとの事で、男女を問わず幅広い層の方が川島雄三と彼の初期作品へ興味をもっていることを知り、カワシマクラブの活動の重要性を実感しました。白井氏による作品の解説を経て、上映開始となりました。上映中のお客様の反応は極めて良く、殊に「還って来た男」では笑い声が、場内全体を包み一体感さえ感じることができ・ました。
 この作品をこれまでにも何回か見る機会がありましたが、最も心地の良い上映会となりました。これは、前述した白井氏の時代背景を含めた解説も大いに功を奏していたものと思われます。また、上映前後のスタッフ陣の動きの良さに50回を越える映画村の歴史を感じました。上映会の終了後、上映開場近くの劇団展望のアトリエに場所を移して、映画村恒例の飲み会となり、映画の話が交錯するうちに楽しい夜は更けてゆきました。(金子記)


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