No.1  1992年6月15日(月)



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川島論・作品論のためのノートその1 

馬場正俊


「KAWASHIMA CLUB」臨時創刊号から7年。創刊号が、藤本、長部、飛烏田、西川、白井(今平氏は電話インタビューだったが、インタビューのドジで、録音に失敗)の各氏へのインタビューと、編集委員の「酔談」という構成をとったのは、独自の川島論・作品論はまだ無理との判断があったからで、インタビューの突っ込みも足りなかったし、酔談も文字どおり「酔談」になってしまった。第二次KAWASHIMA CLUBとも言うべき現在のカワシマクラプの機関紙の発刊にさいして、私なりの川島論・作品論のためのノートをスケッチしてみたい。スケッチと言ったのは最近は、映画館で映画を観ることもほとんどなくなった、確実に、エントロビーが低下して来ているのだろう、そのためである。しかしながら、とりあえずやってよう、おもいつくままに・・・


1. 好きな映画には、自分勝手な思い入れ(夢)を許すものがあるが、川島映画はそれを拒絶しつつ、なおかつ、とても面白い。その秘密を探ること。

2. 「青ぺか物語」「貸間あり」に顕著な《個癖集団劇》の構造。《個癖》どはなにか?

3. オーソドックスとオフビート
 1)時代からのズラシ方、偽善への挑戦・「遠って来た男」
 2)「洲崎パラダイス」の位置、「わが町」と「無法松の一生」、「花影」
 3)「幕末太陽伝」「女は二度生まれる」のラスト・シーンの異様さ、「雁の寺」の外し方
 4)松竹時代と東京映画時代

4. 松竹・日活・東京映画と変わり続けた作風の秘密を、作品の展開に即して後づける。
 1)松竹大船メロドラマの系譜の水準を竿頭一歩推し進め得た意味。
 2)小津への思いと異質さ。
 3)類寿との出会いの意味。
 4)日本喜劇映画の系譜における異質さ
 5)今平の≪重喜劇≫との出会い。「風船」「幕末太陽伝」「洲崎パラダイス」⇔「豚と軍艦」「女は二度生まれる」「しとやかな獣」⇔「日本昆虫記」「赤い殺意」

5. (近江商人の血⇒)下北半島一おいたち一病(観念)、川島伝説

6. 太宰(愛憎)⇒織田作

7. 森田「家族ゲーム」

8. 日本映画の衰退とテレビの勃輿

9. 「江分利満氏の優雅な生活」(近代狂言集)

10. 私の好きな作品「遠って来た男」「洲崎パラダイス・赤信号」「幕末太陽伝」「貸間あり」「接吻泥棒」「女は二度生まれる」「雁の寺」「青べが物語」「しとやかな獣」



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川島流喜劇について
   〜ドタバタからはみ出したドタバタ

山本勇ニ


 川島雄三のどこに魅かれるのか?そう自問してみると、やはり彼の作品、それも喜劇映画ということになる。事実、いままで見てきた映画の中で、それらは、最も自分の心をとらえてはなさないものである。では、そうした川島映画、川島喜劇とは一体どのようなものなのか?

 その特徴は、ナンセンスと異常性の美学を貫いていることである。(代表的な例として、『オオ!市民諸君!』『愛のお荷物』『幕末太陽伝』など)異常感覚の笑いとカラッとした感触があり、日本人離れしているのだ。そしてその演出は、人物をやたらに動かす。自作の中にトイレを出すクセがあるのも、(親友だったシナリオライターの故柳沢類寿氏が耳にした監督の発言より)「日本家屋の中で人間を動かすリアリティを考えると、便所に立つことや便所から出てくることが一番日常的な動きのような気がする」からだろう。柳沢さんによると、川島さんはドタバタ喜劇(スラップスティック・コメディ)を愛し、指向していたという。

 そのことから、これらはすべてうなずけるものである。 しかし、だからといって川島喜劇が単にすぐれたスラッブスティックであるとは断言できない。「スラップスティックは人間の機械化で、機械の人間化」(ベングソンの言葉)つまり、入が物と化する瞬間から快感と笑いが生まれるというのが、その定義である。ところが、川島喜劇にはそれがそのまま当てはまるとは思えない。

(これは、外国や日本のいわゆるスラッブスティックと対比してみると、よくわかる。特に、柳沢さんの脚本による『フランキー・ブーチャンのああ軍艦旗』などの日活のナンセンス喜劇は、その好例といえよう。ちなみに、川島組の監督助手であった井上和男氏は、「川島さんの狙うスラップスティックとルイジュさんの考えるスラップスティックと、食い連っているような気がしてならなかった」と回想している。)

 こうした例が他にないわけではない。作家の小林信彦氏は、チャッブリンが<ペーソス><風刺的ギャグ>、<人生論>といった本来ドタバタにあってはいけない、人間的な生臭さを持ちこんだと指摘している。 そして、彼をスラッブスティック史における(偉大なる)異端者と位置づけているのだ。が、人間的生臭さという共通項があるにしても、川島さんのスラッブスティックとチャッブリンのそれとは、やはり食い違っているようにみえる。こうなると、どうやら藤本義一氏の発言が的を射たものであるようだ。それは、人間性そのもののドラマではなく人間そのもの、人生そのものが喜劇だという促え方が、川島さんの軸としてあったということである。川島さんの作品において、シリアスなものであっても喜劇的な要素がよく見うけられるのは、その現れだろう。又それが小林信彦氏が60年代終りのすぐれたアメリカ映画の特徴として述べた、「人間は本質的にコッケイで、たよりないものだ、という認識に立っている」ことと合致していて、興味深い。してみると川島喜劇とは、人間そのものを生かした、チャッブリンとは又連った異端のスラッブスティックではないか、そう思えてならないのである。



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『カワシマクラブ』に寄せて

金子達郎


 私がはじめて川島雄三という映画監督の名前を知ったのは、当時映画と共に私の興味の対象となりつつあった芝居の題材として取り上げられる事を聞いた時だったと記憶しています。
 ちなみにこのお芝居は、既に自分の死を予感している映画監督カワシマの死の前日を幻想的に描いた作品で、83年初演(私は未見)、87年に再演された演劇舎蟷螂の代表作のひとつでありました。
 而してこれを観る予備知識としてビデオで「幕末太陽伝」を、更にその直後にあの大井町武蔵野館の特集上映で強烈なスクリーン体験をしたのでした。この特集上映によってカワシマクラブの存在を知ることになりました。

 昨年には新生カワシマクラブの一員として参加することになり、今年の初めには新生カワシマクラプとしての初の大仕事である「追ひつ追はれつ」「笑ふ宝船」の初期の2本の短編作品をニュープリントしました。ここまでのきっかけを作ってくれた前述の演劇舎蟷螂も既に解散し、5年という月日の長さを感じずにはいられません。 今回ニュープリントした2作品は、戦後(S21年)の日本の映画状況を知る上で極めて貴重な作品であると思います。
 特に「笑ふ宝船」の方はどうやら戦時中の外地の兵隊さん向けの慰問用映画であったらしく、外地に向かう芸能慰問船の中という設定で、基本的には当時のスタア達の顔見世興業と言った色合いの濃いスラッブステックコメディーものなのですが、敗戦後相当手を加えているらしく謎のシーンも幾つか有り、内容もSF的要素を取り入れており、その破格なアイデアの奇抜さは必見です。

 破格な作品と言えば、前述の特集上映でいわゆる名作或いは傑作と呼ばれる作品以上に私の心を捕らえた、いやいま振り返るとこの作品と出会わなければここまで川島雄三監督にこだわることもなかっただろうというのが「グラマ島の誘惑」です。この作品については監督自身も「天皇批判が強すぎて主題が分裂した(失敗作である)。、」と評するように決して誉められる作品とは言い難いものの、孤島に漂着した宮家の大佐と大尉の兄弟(もちろんフランキーと森繁)、 報道班員のインテリ女性(岸田今日子、淡路恵子)と(浪花千栄子引率する所の)尉安婦たちという不思議な取り合わせの共同生活を描いた喜劇で、孤島という密室と食糧の不足による極限状態にありながらもどこかに艶っぽさと批判の目を感じさせてくれ、男と女の本性が見え隠れするあたりが気に入っています。でもこんな理屈っぽい理由は抜きにして、原住民の土人として全身を黒塗りにしてヒョウ皮のパンツでターザンばりのアクションを見せる三橋達也の他の作品からは思いもつかない意外性は楽しく、一瞬ストップモーションかと見間違える出演者一同が岬の上で真面目な顔をして不動で立っているシーンでは、風で髪の毛がなびくのを発見してそれと気付いたときの心地よさは絶品です。

 以上思い付くままに書いているため全然話にまとまりがありませんでしたが、私の川島雄三への思いの一部が読み取っていただければ幸いです。



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